個人サイトについて
なぜ個人でウェブサイトを運用しているのかについて、整理しておきたい。
要約すると、以下の理由でやっている。
- ウェブの技術を学べて費用対効果が高いから
- 表示されるコンテンツを制御したいから
- フィードバックの場と適切な距離を置きたいから
- かっこいいから
コスパが高い
個人でウェブサイトを持って運用していくことは、学習意欲の高い多くの人にとって費用対効果の高い活動だと思う。
ほとんどの技術が無料で利用できる時代になってきているので、ここで言う費用というのは時間や労力のことで、効果というのは得られる知識のこと。その仕組みを用意するにあたって、ウェブサイトというものがどういう仕組みで動くかということが、一通り理解できる。この辺の分野を本職とするような人であれば、こういうことは最低限理解しておいてほしいし、何なら採用面接でもこういったことを質問する・される機会がある。
学習コストについて述べたけれど、経済的なコストパフォーマンスについてもそう。その時代においておおよそモダンとされる一通りの技術を利用してウェブサイトを運用できる程度の能力があれば、ウェブサイト自体がその証左となってくれるし、仕事のアテも比較的簡単に見つけられると思う。それを生業にしたいかどうかについては、また別の話になるだろうけれども。
一旦ウェブサイトを完成させたら終わりという訳でもない。移り変わりの激しいウェブ技術を継続的に運用していくことは、それだけで技術的にも精神的にも難しく、実践して学ぶ価値がある事柄だと思う。同じものをつくるにしてもやり方は一つではなく、無限の可能性がある。初学者にも熟練者にも居場所があり、学びの場として最高のコンテンツの一つだと思う。
表示されるコンテンツを制御したい
どこまで個人で用意するかということについて、例えば以下のように考えていくことはできる。
- ブランドをあまり押し出してこないサービスであれば良いのか
- ドメインさえ自前のものであれば良いのか
- HTMLを完全に書き換えられるようなサービスは良いのか
- 静的ファイルをホスティングしてくれるサービスは良いのか
- VPS借りてやるのは良いのか
- 論理インフラから構築していく必要があるのか
- 自宅に物理サーバ建てる必要があるのか
しかし、どこまでいけば個人でやっていると言えるのかというのは曖昧で、これはその時代の技術の発展具合によって変わってくるし、どこまでやっても終わりはない。こういう静的な基準で考えるよりも、方針や信条としてどの方向を向いているかという話で考えた方が良いと思う。
「表示されるコンテンツが制御可能か」という基準を自分はよく考えている。例えば自分のウェブサイトだと、ソースコードやウェブサイトのホスティングもビルドも全部GitHubにやってもらっているけれど、勝手に広告が出たり、コンテンツの見せ方が変わったり、運営の都合で非公開にさせられたり、他人の文章が自分の書いた文章のすぐ隣に堂々と表示されたりはしないし、他の仕組みに乗り換えることも簡単にできる。公開するコンテンツも、まあ自分が書きたいような内容であれば完全に自由だ。
サービスが障害で落ちたりすることはあれど、大抵はすぐ元に戻ることが見込まれているし、コンテンツの内容が微妙に書き換わるというものではなく、コンテンツの配信に成功するか失敗するかの二択であるから、これは前述した話とは少し違う話だと思う。サービスが終了したりすることもあるけれど、最悪の場合でも別のサービスに一日もあれば乗り換えられるし、そういう意味だと技術的にロックインされているか、安心感があるかという話にも関わってくるのかもしれない。
フィードバックと距離を置きたい
文章を書くときに、いいね中毒や、批判への恐怖に晒されたくないという気持ちがある。そういったものが滲み出た文章は、読むのも書くのも好きではない。他者からのフィードバックと適切に距離を置くことで、この気持ちは抑制できる。
文章の方向性として、内に向いたものか、外に向いたものかという話があると思う。要は主に自分のために書いているが他人が見てくれても構わないという体裁で書いたものか、外部の多くの人に読んでもらいたいという気持ちで書いたものかという、書く時のスタンスの話。
自分は、個人の書いたもので言えば、内向きに書いたものの方が読みたいと思うし、そういうものを書きたいとも思う。内向きに書いたものの方が、外部からの影響を受けず、ある意味その人の純粋な考えをより反映したものになって、多様性や希少価値が出て面白い。技術情報についても、そもそも技術情報ではまず一次情報をあたるべきだし、もし個人の書いた二次情報を見るのだとしても、内向きに書かれたものの方がやはり信頼性が高く、貴重な情報が多いと感じる。
なぜ個人の外向きの文章が好きではないかというと、その性質上フィードバックを受けやすく、結果的に出力されるものが外部からの影響を受けたものになりやすいからだと思う。
外の人が気持ちよく読めるような内容にしたい、という気持ち自体は嫌いではない。しかし、そのためには外の人の気持ちを理解して、内容に取り入れる必要がある。手っ取り早い方法として、いいねやブックマークの数を指標とする方法がある。いいねが沢山付いて、人気が出ると嬉しい。しかし、これは甘美な罠である。気合いを入れて書いた記事をそれとなく共有するとき、内心ではものすごく緊張しており、気付けば通知を無限に更新している自分が居て、期待よりいいねが付かないと落胆する。いいね中毒になると、いいねの付きそうな記事だけを書くようになり、逆にいいねの付きそうにない記事は書けなくなってしまう。これが本当に自分の書きたいものだったのだろうか。
褒めるフィードバックだけではなく、貶(けな)すフィードバックもある。インターネットでは、心無い誰かが匿名で暴論を吐いてくるということもしばしば起こり得る。こういう体験の多くは心に刺さるもので、一度恐怖に晒されると、次回からは怒られないものを書こうとしてしまう。
何がいけないのだろうか。思うに、以下の点が良くないのだろうと思う。
- 信頼性の無いフィードバックを重視すること
- フィードバックを強く受けすぎること
いいねやブックマークは、付ける側はものすごく手軽。他者が書いたものを貶すのも、褒めることに比べるとよほど簡単。こういうものを指標として文章を書くと、平均的な人達が簡単に賛同しやすいものを書いてしまいがちで、正直言って好ましくない。自分にとってウェブがつまらなくなる原因の一つであるとさえ感じる。
コンテンツそのものと近い位置にこの手のフィードバックを受ける口があると、このフィードバックループが強まりがちになるが、一般的なブログプラットフォームでは、このコンテンツとフィードバックとの距離があまりにも近すぎると思う。自分のコンテンツを載せるページに他人のコメントがリアルタイムに追記されていくとか、他人がボタンを押すと自分の持てるデバイスすべてに通知が来るだとか、そういう機能がデフォルトになったものがあまりにも多い。
幸い、個人のウェブサイトではこういったものも自分で制御できる。自分は距離を置きたいので、今のところ自分のウェブサイトにソーシャルな窓口は設けていないし、フィードバックが欲しいときだけSNSに共有し、信頼できそうな人の直接的な言及しか参考にしないように気を付けている。一番嬉しいフィードバックは、信頼できる他人の記事内で自分の文章が言及されていて、それに伴って何かが書かれているというケースだと思う。いいねより言及してほしい。
かっこよさ
結局のところ、それがかっこいいと思うからやっている。
長々とゴタクを述べたが、突き詰めて考えると結論はこうだ。周りの目を気にしながら文章を書いて、知らない誰かのサービスに預けて、よく分からない仕組みで公開されて、たまに見た目が変わったりして、いろんな情報が周りにベタベタ並んでいて、それでかっこいいと思うか?
それで良いと思う人もいると思う。「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」だ。自分の信じる最高のサービスにコンテンツを預けて、自分は文章を書くことに集中できる。それもまた理想だ。むしろ、自分もそう思いたかったとさえ感じる。
多くの人にとって、ウェブの技術は魔法だ。少し指を動かすだけで、世界中の人に自分の声を届けられる。しかし自分にとって、ウェブの技術はもはや魔法ではない。知ってしまった以上、使いこなしたいと思うのが人の性というもの。もちろん、他の人には強要しない。技術者としては、出来る限り、他の人の中ではそれが魔法であってほしいと思う。