どれだけ知性を落とせるか
アニメ見るときとか、いやアニメに限らないんだけど、何らかの作品と向き合うときには「楽しんだほうが勝ち」というスタンスを強く守ろうとしている。自分はあまり物事を信じる方ではないから、このスタンスの正しさに対する信仰心はとても強い方だと思う。
例えば、科学的な突っ込みどころは多いものの見せたい部分を思い切り描いてくる作品に対しては、細かいところを無視してどれだけ世界観に入り込めるか、どれだけ上手く騙されるか、どれだけ意識せずにそういう状態になれるか、自分の中で整理を付けられるか、そういう気持ちになれる自分かどうか、というところをものすごく大事にしている (まあ結局後から小難しい顔して考察してたりするんだけども)。説明が面倒だから、誤解を恐れずに言うと「どれだけ知性を落とせるか」という風に表現することが多い。この表現は完全に誤解されがちなので別の言い回しを考えようとしたけど、考えた上でこれしか出てこなかった。いつもこの言葉をもって考えているし、出てこないものはしょうがない。
ディズニーランドみたいなテーマパークに行くときや、何らかの世界観が用意されたイベントに入るとき、アニメの話に戻したいのでそのへんのジャンルに戻ってくるならばラノベや漫画を読むときも、同じことを考えている。実際そう考えるのが得意かというと、全然そうでもない。寧ろ斜に構えがちで入り込むのが苦手だから、余計に意識しているのかもしれない。せめて自分の好きなものに対しては素直に向き合えるように、精一杯の努力をしているつもり。本当は何に対しても意識せずに無意識に楽しめると最高なんだろうけど、思春期あたりでそういう無邪気な気持ちは影を潜めてしまったっぽいな。
勿論、時代背景や科学的思考からの考察を馬鹿にしている訳では決してない。そういう意味では、さっき正しさっていう言葉を使ったのはミスったなと思った (基本的に日報やブログを書いているときには書いた文章を消さないことにしているのでミスった)。この辺りはとにかく馬鹿にしてるわけではないので上手く伝わってほしい。ただ、「あーっ、小難しいこと考えずにとりあえず騙されとけばよかったなあ」と思うことがあまりにも多すぎるし、騙されるという体験は初見の1回しかできないことが多いので、その貴重さ、一期一会的感覚、第一印象が脳に与える衝撃をより尊重したい。
何であれ作品自体が絶対的な価値というものを持っているようには思えなくて、価値というものが存在するとすれば、評価する人間との相対性がそれを発生させると思っている。逆説的かもしれないけれど、「この作品はダメ」と捉えてしまう事実が「それをダメとしか捉えられなかった自分」を作り出してしまうような気がしてしまう。勿論、この考え方がだだの合理化に過ぎないということは分かっているつもり。
娯楽コンテンツって無限に湧いてくるように思えてくるけど、実際のところ探索コストというか、面白そうな情報を見つけるために探しにいく行動とかもそれなりにやっているはずで、生きているだけで無限に流れ込んでくるという状況にはなっていない。基本的には盛り上がったり、飽きてしまったりの繰り返しで、盛り上がり続けている訳ではない。何が言いたいかというと、コンテンツは貴重なのでもっと効率よく楽しみたい。そのための最適化行動として人は、少なくとも自分は、自ら知性を下げようとしている。