探究について

TL;DR 多くの知識を得たければまずその学習法について知ったほうが捗るが、それは意外と得難いものである。また、知識を得たいという欲求は非常に尊いものであり、幸運にもそれを手にしたときには簡単に手放すべきではない。

幸せに生きるために、知識の獲得方法について考えたい。知識といっても、例えば冬も暖かく生活する方法とか、おいしいご飯を継続的に食べる方法とか、そういうことについてでもいい。([META] ここで述べる文章は考えていることを取り留めなく吐き出すことで脳内のスタックを浅く保ちながら思考を整理しようという試みから偶然出力されたもので、読み手のために試行錯誤して書かれたものではない)

知識を得ることで幸せになるのか。歴史を振り返っても知識は人間の生活をより良くしてきたようだし(昔に比べると現代のほうが知識が多く幸せそうだという風に自分は捉えている)、多くの知識を持つことでそれだけ豊かな生活を送れるようになる可能性は高い。知識を獲得しすぎるとヒトの容量から溢れて非効率なことになってしまう、ということもどうやら世間を見ている限り無いらしい。むしろ多くの知識を得ることで、それらを組み合わせてより高次の知識や洞察を得られることもある。また、ヒトをはじめとする比較的知能の高い動物には、探究心や好奇心と呼ばれる欲求があるとされている。知識を得ることは本能に従った欲望を満たす行為だとも考えられる。欲求を満たすという意味でもやはり知識を得ることで幸せになれる可能性が高い。

知りたいという欲求には価値がある。全てを知ろうとするのは愚かなことだという意見も聞いたことがある。知るという行為の定義はともかく、それは恐らく不可能なのだ。ただ、知りたいという欲求には価値がある。基本的には、知識を得ることより知識を得たいという欲求を得ることのほうが難しい。得るのが難しいものには価値がある。何より、欲求には人間を動かす力がある。何かとモチベーション不足に陥りやすい飽和されたこの現代社会において、ヒトを動かす欲求の力は貴重だ。

知識とは何かという定義についてはまだ触れないでおきたい。ただそれでは漠然としすぎていて思考が進められないので、技術というところに焦点を絞って考える。技術も多義的な言葉。人によっては、技術は人を幸せにする手段のことである、と主張するかもしれない。ある人は実際にそう主張してきた。ただここでは、ある目的を達成するための手段や方法、ぐらいの捉え方に留めておく。

技術はどうすれば獲得できるのかについて考えたい。確度の高い話をするには、より具体的な事実や広く確かめられている知見に焦点を絞って考えた方が良い。ここでは、自分の持つ技術の中でも比較的話せることが多いプログラミングに関する知識を例に考えてみる。

自分はプログラミングに関する知識はどういう風に獲得してきたのだろうか。この話題については以前ブログに書いた記憶がある。プログラミングを始めたのは4年ほど前。いろんな人に何度も質問こそしたけれど、直接人に教えてもらったと言えるところは少なくて、インターネットでそれらしい分野の名前で検索して出てくるページを読んではまた別の語句で検索する、ということを繰り返していたと思う。最初の方は「プログラミング 勉強」とか「プログラミング Windows」とかだった (当時自分のパソコンは持っていなかったけど大学ではWindowsが使えた)。そのうち「twittet api 使い方」とか「Perl コンテキスト」とかそういう語句で検索するようになった。それから、能力の無い自分にでもこういうことができるということを知って喜びつつ、何かをするプログラムを書いて動かしてみて一喜一憂する、という具合だった。

こういうことを繰り返して時間を使いながら学習を進めてきた訳だけど (自分でもよく続いたなと思う。きっとたまたまいい間隔で飴が落ちていたのだろう)、この学習フローにも改善の余地があったと思っている。検索して出てくるページに書いてある内容は、Xを使うための手順はYであるということや、Aとはこのようなものである、というものが多い。どういう語句で検索すれば良いのかは示唆されない。これは自分で考える必要があるが結構難しい問題。この分野についての知識はこういう風に検索していけば獲得していけるよ、ということは書いていないのだ。

知識を得ることの難しさは、その学習法を知ることの難しさに大きく左右されると思う。検索の話を抽象化すると、「ある目的を達成するための手段」という単位での知識は比較的容易に得られるものだけど (語句で検索すれば手段を載せた情報が出てくる)、手段を知るための学習法を知ることは難しく (どのように検索していけば良いかを紹介している情報は少ない)、更に学習法を知るための手段のようなメタ学習法を知ることは更に難しい (どいう語句で検索したらそういう検索方法情報が出てくるのか検討がつかない)。

インターネットで調べるより本を読んだ方がより体系的な知識が得られるということがよく言われる。インターネットで得られる情報と本から得られる情報の違いは一体どこにあるのか。最近の義務教育においてはこの違いを「情報の信頼性」という括りで説明しているが、この違いはもっと別のところが原因になっているんじゃないだろうか。

この原因は、前述した「体系的」という言葉に込められているのではと考えている。さきほどの検索の話と照らし合わせながら考えると、インターネットで検索するだけでは得難いとした学習法についての情報が、この体系的にまとまっているという性質によってカバーされているのではないか、ということ。即ち、1つの本の中に含まれた個々の情報間の「関連性」というメタ情報にこそ、インターネットで得られる少量の情報の組み合わせに比べて大きな価値があるのではないか、ということだ。

大きなものを小さな要素に分けたとき、要素を組み合わせただけでは元の状態と比べて意味が欠落してしまうということがよくある。組み合わせ方にも意味があったのだ。本を先頭から末尾までなぞってなぞって読むと、個々の要素における情報だけではなく、それらの要素が他の要素に関連しているという貴重な情報が得られる。そこに意味があると考えたからこそ、著者はその要素を本に含むことにし、その順序で要素を配置したのだ。

インターネット以前 & インターネット以後という見方をすると急激にありきたり感が醸し出されてしまうが、確かに主な情報が書籍からしか得られなかった状況と比べて、インターネットで検索することで情報が得られるようになったことで、書籍の持つ情報の価値が変わってきたと言える (実際には人間側の価値観が変わったと表現するのがより正確か)。

思考の結果得られた認識をここにまとめる。書籍の持つ価値は、個々の要素の持つ価値だけでなく、取捨選択された要素が一篇に繋ぎ合わされた結果であるということにも大きな比重をおいて評価するべきだ。また複数の情報を編纂する際には、その組み合わせ方にも意味が生まれるということに気を付けたい。情報を含んだページ間がハイパーリンクで結び付けられるインターネット界では、情報間の関連性についてのメタ情報が少し乏しいように感じられる。 特に学習という目的においてこのメタ情報の持つ価値は高い。情報過多と言われるほどに情報が得やすい時代にはなったが、情報間を繋ぎ合わせるために新たな情報が必要とされていく。

ここまで、幸せに生きたいという欲求から始まり、ヒトがその探究心を満たすたすべくより多くの知識を獲得するにはどうすればよいかということについて考えてきた。では探究心はどう獲得すればいいのか。これについてはまだ不明な点が多い。好奇心や探究心はヒトに基本的に備わっているものとしたが、常に湧き続けている類のものではない。天から降ってきたり、探すと道端に落ちていたり、何かと衝突した弾みで発生するようなものだと思っている。より多様に活動することで得られたり、一方で何もしていないときに急に得られたりする。好奇心や探究心といった欲求を確実に高める方法は見つけられていない。知識を得たいという欲求は非常に尊いものであり、幸運にもそれを手にしたときは簡単に手放すべきではない。